買えなかったコントラバス
音大生の頃、私は大学の楽器をずっと借りて使わせていただいていました。コントラバスは持ち運びが大変なので、必要な学生には大学が良い楽器を貸し出してくれたのです。個人としては長く初心者用の楽器しか持っていませんでした。
いつか良い楽器が欲しいと思って少しずつ貯金して、ついに現在のコントラバスを手に入れることができました。それはもう忘れられない喜びの体験でした。今に至るまでその楽器を大切に使っています。多分、この楽器が親に買い与えてもらった楽器であったら、感覚は全然違っただろうと思います。
子どものぜいたくの正体
少子化の時代、子ども一人に両親・祖父母・おじちゃん・おばちゃんとみんなに可愛がられている子どもさんの様子を見ることが多いです。たくさんの人に愛されるのは素晴らしいことですが、可愛がることと贅沢させることは違います。
ついつい子どもや孫の喜ぶ顔が見たくて贅沢なものを与えたり、贅沢な経験をさせたくなるもの。喜ぶ子どもの顔は格別です。けれども、贅沢させて子どもの喜ぶ顔に満足している時に、実はその人は喜びを子どもから奪って自分を満たしているのです。
例えば、もし私が子どもの頃に良い楽器を親に買い与えてもらっていたとして、きっと大喜びしたに違いありません。でもその喜びは本当の意味では私のものではなく親のものになってしまっていたでしょう。大人になって自分でコツコツお金を貯め、ついに楽器を手に入れた時の喜びは残っていなかったと思うのです。
子どもの喜びを奪わないように
子どもに贅沢な体験はさせない方が良いのです。やがて子どもたちが成長し、自分で仕事をするようになり、お金を貯めて欲しかったものを買い、行きたかった所に行けばよいのです。
それが些細なことであったとしても、自分で得たお金で念願のものを手にするとき、それはキラキラ輝いた忘れられない喜びの体験になるでしょう。
けれども自分で買い、自分で行き、自分で食べる前に、もう子どもの頃にみんな親からもらったことがあり、体験したことがあることばかりだったとしたら、その人の人生の喜びはすでに大人が使い切ってしまっているのです。悲しいことです。
まとめ
子どもの喜びを奪って自分を満たすような生き方は慎みたいもの。親にしか与えてあげられない、祖父母にしか与えてあげられないものを見極めて子どもさん・お孫さんと関われたら素晴らしいですね。
あなたの掛け替えの無い人生が素晴らしいものでありますように!