しばらく前に、木下杢太郎の勉強をしていて、彼の初期の戯曲の傑作『南蛮寺門前』(なんばんじもんぜん)が山田耕筰によって楽劇化され、山田自身の指揮によって上演されたことを知りました。
山田耕筰はドイツ留学中に、リヒャルト・シュトラウスの影響で、ワーグナーが切り拓いた「楽劇」という新たな音楽ジャンルに強い関心を抱いていました。
帰国後まもなく、彼は日本における楽劇創作の可能性を模索し、その題材を探し始めます。そこで出会ったのが、木下杢太郎の戯曲『南蛮寺門前』でした。山田はこの作品に深く惚れ込んだようです。わずか三日間で、約六十ページに及ぶ総譜を書き上げたという逸話から、寝食を忘れて没頭する山田の姿が目に浮かぶようです。

木下杢太郎・山田耕筰による『南蛮寺門前』は、おそらく日本における初めての本格的楽劇作品であったと思われます。しかもその上演形式は、歌舞伎との融合というきわめて挑戦的なものでした。三味線などの邦楽とオーケストラによる西洋音楽が共演し、主役を演じたのは六代目尾上菊五郎。
和洋の音楽・演劇文化を大胆に結びつけたこの試みは、当時としてはきわめて先進的なものでありました。和洋楽器の調和という観点から見れば、後年の武満徹らの音楽へと連なる系譜を、そこに見出すこともできるかもしれません。それでいて、親しみやすい音楽として当時の人々に広く受け入れられ、人気を博したようです。
しかし、残念なことに、この歴史的な楽劇の楽譜は、第二次世界大戦の戦火によって失われてしまいました。山田耕筰自身が次のように回想しています。
日本音楽史において重要な意味を持ち、また伊東にとってもかけがえのない文化的遺産であったはずの作品が、失われてしまったというのは、返す返すも惜しまれるところです。
けれども、楽譜は失われましたが、南蛮寺門前の冒頭に歌われる子どもたちの歌「夕やけの歌」は、すでに多くの人々に親しまれており、オーケストラの譜面が失われた後も、愛され歌い継がれていると、1949年の回想文の中で山田耕筰自身が記しています。

木下杢太郎の戯曲『南蛮寺門前』の舞台は戦国時代です。京都四条に建てられた南蛮寺(教会)が、当時の人々の心や日本文化・伝統に与えた影響、そこに生じた動揺や摩擦が、鋭い感性によって描き出されています。
この戯曲は、後に杢太郎が生涯の重要な研究テーマの一つとして取り組むことになる切支丹研究の先駆けとして、キリスト教伝来における日本文化と異文化との「出会い」への関心を示す作品であると、評価されてきました。
しかし、今回あらためて資料を読み進める中で、この戯曲には、もう一つの重層的な意味が込められていることが明らかになってきました。
それは、杢太郎の少年期、新井の名家『油正』の出のキリスト教伝道者・早川谷二郎が帰国し、伊東で布教活動を行ったことによって生じた、新たな価値観・文化と伊東との出会いの様子が、この戯曲に重ね合わされているという点です。
すなわち『南蛮寺門前』は、永禄年間におけるキリスト教伝来を描いているだけでなく、近代伊東の幕開けを象徴的に描いた戯曲であると捉えることができるのです。この点について、先日の伊東郷土史研究会において発表させていただきました。
もし山田耕筰の楽譜が残っていたならば、『南蛮寺門前』は日本の音楽史において極めて重要な意味を持つ作品であったことでしょう。同時に、それは伊東にとっても、誇るべき無二の文化的遺産となっていたはずです。戦火で失われたというのは返す返すも残念なことでした。
しかし、作品のすべてが失われたわけではなく、楽劇の冒頭を飾った子どもたちの歌『夕やけの歌』は、後に合唱曲として編曲され、現在にまで伝えられています。ところが、伊東の地においてさえ、この歌の存在は、ほとんど知られていないのが現状ではないでしょうか。
私が音源を探した限りでは、1962年の広島大学グリークラブさんのこの演奏しか見つけられませんでした。見事な名演、必聴です。
『夕やけの歌』、味わい深い名曲です。街の文化を育むとは、こうした郷土に深く結びつく作品を大切に守り、次の世代へと手渡していく営みのことなのだと思います。
伊東の小学校・中学校、そして地域の合唱団の皆さんに、ぜひこの歌を歌い継いでいただきたいと願っています。これは伊東に残された、大切な文化遺産です。
機会があれば、川奈教会の聖歌隊でも、ぜひ歌っていただきたいと思います。





