子どもの頃、空手を習っていました。ある日、通っていた空手教室の属する流派の大師範のお祝いの式典でこんな光景を目にしました。
大先生のお祝いの式典ですからその流派の偉い師範方が前に並んで厳粛な雰囲気で執り行われていたのですが、式の途中小さな子どもさんがチョロチョロっと前に出てきておどけた仕草をしました。途端に張り詰めた空気がゆるんで、前に並ぶいかめしい先生たちがニコニコと顔をほころばせたのです。そのお子さんは大先生のお孫さんでした。
その様子を見ていて今度は別の小さな子どもさんが、やはり前に出てきて同じようにふざけたのですが、そのお子さんを見ても先ほどのようにニコニコする人はおらず、しばらくして隅の方に誘導されてしまいました。そのお子さんは「普通」のお子さんだったからです。今でもとても嫌な光景として記憶に残っています。
子育ての中で子どもの「特別」の意味を履き違えないように気をつける必要があります。本当の意味での「特別」を教えるためには、子どもの立ち位置を「特別」にしてはいけないのです。
「普通」の子どもとは違って大先生の孫である「特別」な子どもは、そもそも他の子どもたちと立っている場所が違います。違う場所に立っているがゆえに「特別」であると自分を認識していた子どもが、その特別な立ち位置を失った時に経験するのは劣等感です。大人が与えてくれた下駄を履いて他の子どもを見下していた子どもさんは、下駄が無ければ自分を肯定できなくなってしまいます。
フラットな関係性の中で自らを肯定する力が養われていないので、普通の関係性の中に生きることができないからです。
しばらく前に、ある学校で修学旅行の際にクラスの大勢の子どもさんが持っていけるお小遣いの上限を超えて持ってきて問題になったという話しを聞きました。親御さんたちの「自分の子どもだけには多く持たせてやりたい」という気持ちが働いたのでしょうか。
しかし、子どもにとって大切な経験はたくさんお小遣いがあるから楽しめる「特別」ではなく、決められた枠の中であれこれ考え工夫し得られる自分だけの「特別」な楽しさではないでしょうか。
子どもたちが本当に幸せを実感して生きられるように、親は子どもに与えるべき「特別」をはき違えないようにしたいものです。
あなたのたった一度の人生が素晴らしいものでありますように。