早川谷二郎

伊東のキリスト教史における立役者は誰かと問うならば、真っ先に早川谷二郎の名前が挙げられます。キリスト教史に留まらず、伊東の近代史における重要人物でありながら、残念ながら今やキリスト教会でもその名前を知る人はほとんどおりません。
この5年伊東のキリスト教史をまとめてきて、その中で最も注目してきたのが早川であり、郷土史家 加藤好一先生の応援をいただきながら研究を進めています。なんとか光を当てて後世に伝えたい人物です。
早川谷次郎は1865年(慶応元年)今に続く伊東市新井の名家、元酒造業 油正(あぶしょう)の稲葉正右衛門の次男に生まれます。24歳の時に米国に留学し、サンフランシスコの日本人ミッション教会で森永製菓創業者の森永太一郎と共にメリマン・ハリス牧師から洗礼を受けました。
帰国後、伊東尋常高等小学校の教員をしながらプリマス・ブレズレン派(同信会)の伝道者として布教活動に励みます。早川の教え子から次々にキリスト者が生まれます。のちの伊東町長 鈴木徳太郎をはじめ、後の町議で町の名士 飯島家の飯島忠造、セットランド宣教師と結婚する中野廣一、その他驚くほどたくさんの前途有望な若者たちが続々とキリスト者になりました。
またキリスト者にはなりませんでしたが、かの木下杢太郎も早川の教え子であり杢太郎が生涯の中で最も影響を受けた人物の一人として早川は数えられ、たくさんのエピソードが残されています。
一方、大島・伊東で孤軍奮闘のスカンジナビア・アライアンス・ミッション、アンナ・セットランド宣教師を助け、ブレズレン派でありながら同盟協会の成立・発展にも多大の貢献をされました。
この人が居なければ伊東のキリスト教史はまったく違ったものになっていたでしょう。
神浦の早川庵
これだけの人物でありますから相当の変わり者であり、伊東の名所、汐吹岩の裏手の天狗山と呼ばれていた神浦に小屋を建て仙人のような生活を3年に渡って続けます。
朝になると伊東の町に降りて行き伊東尋常高等小で教え、夜は私塾 活泉夜学校で英語で聖書を教え伝道をし、提灯を灯しながら神浦の山中に帰るという生活でした。

木下杢太郎の文学にはたびたび早川をモチーフにした登場人物が出てきますが、「石竹花」という詩の中で早川のことをこのように書いています。
其中にも予に最も深い印象を与へたものは耶蘇教の伝来の沿革である。初めは小さい家に日曜日の夜毎に紅い十字の提灯が点された。それが廃れたころには怪しい、一人の男が寂しい村道に立って夜夜、辻説教をした
なんと神浦の小屋に日曜夜十字架で提灯を点していた、つまり早川はそこを教会と定めて礼拝を守っていたのです。1897年(明治30年)頃のこと、これが伊東で最初の“教会”と言うこともできるでしょう。

先日、「伊豆歴史文化研究会」で「伊東のキリスト教史事始」という講演をさせていただいて、「伊東郷土研究会」の篠原会長が早川谷二 郎に強い関心を示してくださり、神浦にあった早川庵と早川が掘った井戸の場所特定のために関係者を集めてくださいました。
油正の現ご当主、飯島忠造氏のご子孫、鈴木徳太郎氏のご子孫、篠原会長と同盟協会の末裔の私、の顔ぶれです。

油正さんで、一時間ほど「あそこだ、ここだ」「昔はああだった、ここは通れるとは思えない」と様々な角度から検討会が実施され、その後雨の中でしたが早川庵(伊東最古の教会)跡の現地調査にいきました。
早川庵と井戸の跡、発見
汐吹の駐車場に車を止め、その後は悪天候で大変でしたが記録を頼りに検証していって、ついに場所を特定することができました。それがこちらです。


道路を造成するさいに半分山を削っているので当時の地形は残っていませんが、この小高い丘のような場所の上に早川庵があり、120年以上前、杢太郎が書いた提灯の十字架が点され礼拝がもたれていたのです。信じられないです。

早川が掘った井戸については油正さんのご当主が場所を知っておられて、今は草に覆われ見ることができませんがこの先に井戸の跡があるそうです。
まとめ
こうしてついに、早川谷二郎の神浦の住処を特定することができました。120年前、ここで早川は生活し、聖書を読み祈り、礼拝を献げ、ここから伊東のキリスト教会の礎となる伝道活動に出ていったのです。この感動は言葉にすることができません。
伊東のキリスト教会の原点のような場所、キリスト者 早川谷二郎の信仰・功績と合わせて語り継ぎ広めていきたいです。
追記
伊東の方ならお分かりのように、早川庵のあった汐吹周辺、今は旧道がありますがあの道ができる前にあそこに人が住んでいたとは信じられない場所です。当然、早川が提灯で十字架を作っても暗くなって通りがかる人などおらず、見るのは動物たちだけ。
杢太郎の「小さい家に日曜日の夜毎に紅い十字の提灯が点された」という文章の意味を考え込んでしまったのですがハッと気がつきました。
日曜日、早川は教え子たちを庵に呼んで礼拝を共にし、一緒に時を過ごしていたのではないでしょうか。何の目印もない山の中ですから、行き来する人たちの目印として提灯の十字架を掲げていたのです。
あれだけの影響を早川から受けた杢太郎。お姉さんもキリスト者ですので、早川に誘われて日曜日に出かけたことはむしろ一度や二度では無かったと考えて自然です。
杢太郎が見た紅い十字の提灯は、早川庵の礼拝で見た忘れがたい光だったのかもしれません。