色々な呼ばれ方
日本で牧師は「○○牧師」と呼ばれるよりも「○○先生」と呼ばれることが多く、牧師の私は普段「山口先生」と呼ばれています。
でもそれだけではありません。娘たちからは「パパ」と呼ばれますし、友人たちからは「グッチー」、ご近所さんは「山口さん」、親・兄弟は「こうじ」、結婚して20年の妻からは未だに「こうじくん」と呼ばれています…。
様々な呼ばれ方は様々な立場や関係性を象徴するもの。「牧師である私、父である私、友人である私」、一つ一つの与えられている立場を大切にしたいと思います。
日本人は「先生」の呼び名が好きで「学校の先生」「病院の先生」「政治家の先生」「教会の先生」、世の中に色々な先生がいます。
「先生」と呼ばれる以上、「先生」としての責任を自覚する必要がありますが、一方で常時「先生」であってはいけないとも思います。
相互に先生
日本人は「先生」の呼び名が好きで「学校の先生」「病院の先生」「政治家の先生」「教会の先生」、世の中に色々な先生がいます。「先生」と呼ばれる以上、「先生」としての責任を自覚する必要がありますが、一方で常時「先生」であってはいけないとも思います。
ある時点まで「先生」と呼ぶ相手は自分より年上の人でしたが、特に子育てをする中で自分より若い「先生」に出会う機会が増えてきました。私が最初に出会った年下の「先生」は娘の幼稚園の先生でしたがそれは新鮮な経験でした。
子どもがお世話になる先生に対して、親である私が敬意をもって「先生」として関わることは大切なことです。
牧師は教会において確かに先生としての責任を与えられています。けれども、当たり前のことですが牧師があらゆる事柄において「先生」である訳ではありません。
私は教会において尊敬すべき信徒の方々に囲まれています。人生経験・社会経験・専門知識、様々なことで信徒の方が私よりも秀でている面があり、私の先生になってくださいます。
最近は自分より若い教会のメンバーが少しずつ増えてきましたが、やはり若い方々を見ていて尊敬すべき所、教えられる所が多々あります。
生かしあえる関係性
一つの立場、一つの土俵にしか立てない人は不自由ですし成長することができません。その人は自分の肩書きが通用する土俵にしか立つことができないのです。
硬直化・固定化した関係性において構成される集団からは、相互に影響しあう関係性が生まれないので閉鎖的で発展性がありません。
例えば私が常に先生である集団は私の能力以上に成長できませんし、私の限界が集団の限界になってしまいます。
しかし、相互に先生として影響し合える集団は、一人のリーダーの能力・限界を超えて成長することができます。このように個人・集団、両面において自分の得ている敬称・肩書きに固執しないことが成長することの秘訣です。
まとめ
いつも先生であろうとしないこと。いつも生徒でいることに甘えないこと。様々な土俵にあがり、様々な視点があることを知り、尊敬しあう関係性を構築すること。
豊かさを味わい成長していくためには相互に影響し合えるかがどうかがカギになります。あなたの人間関係はどうでしょうか。あなたが属している集団はどうでしょうか。
あなたの掛け替えの無い人生が素晴らしいものでありますように!