「神浦の仙人」と呼ばれたキリスト教伝道者 早川谷二郎。明治30年代、彼が3年余りを過ごした汐吹岩の裏手、天狗山と呼ばれていた神浦の小屋の場所を特定したことを前回の記事に書きました。
旧道に面した場所にあり、1970年代に道路が造られた際に小屋があった山の一部が削られてしまったと思われ今は上り口がありません。しかし、好奇心を抑えられず後日天気の良い日にもう一度現地に出かけ、木にしがみつきながらなんとか上まで登りきることができました。

そうするとなんということでしょうか。
下から見上げても分からなかったのですが、上ってみると一段低くなった細い道があり、山側に明らかな人工物である石積みが10mほど続いていました。そうして、その道を進んで頂上を見ると決して広くはありませんが、平らに開けたスペースがあるのです。



その先は断崖絶壁で真下が海ですが、やはり海側にも石積みがされておりました。
こんな山の中に石積みがある理由は他に考えることができません。残されている記録とピッタリ場所が一致していますので、早川が石積みをして小屋に至るアプローチを確保したのに間違いありません。
恐らく小屋があったと思われる広がったスペースは、もう120年が経っていますので腐葉土などが堆積していて目視して小屋跡や生活物を認めることはできませんでしたが、土をどけていったら小屋跡が出てくる可能性は高いと思います。
もちろん素人が下手なことをしてはいけませんので、手を付けずに帰ってきました。

そして今日、急遽川奈教会の都合がつく信徒さんたちを案内して、もう一度早川庵跡を訪れました。
木下杢太郎が印象深く書き残したように、ここで120年前毎日曜日に提灯で作った十字架が点され礼拝が持たれていたのでしょう。そして多くの伊東の若者たちが早川を慕って集まり、神の言葉である聖書を聞きイエス・キリストを礼拝したのです。
参加者一同感動に包まれながら、伊東のキリスト教会発祥の地と言うべき場所で祈りを献げ、今私たちがこの場所に導かれていることを感謝しました。
早川谷二郎から繋がれてきた伊東にキリスト者としてのバトンの重さを噛みしめながら、このバトンを後世に受け継ぐことができるようにと神様に祈りました。

早川庵から見下ろす伊東の海の美しさ。汐吹の荒々しさと対照的に岬の裏側神浦は静かです。
早川がこの静かな景観を愛し、たった一人で仙人暮らしをしたその思いに触れることができた、そんな一日でした。
