主語の使い分け
日々の生活の中に起こる様々な出来事において、主語の選択はその人の心の実態を表わし、生き方を決定づけるほど重要です。
例えば日本代表のサッカーチームが活躍すると、「私たちは一つ」とばかりに日本人という大きな括りの中で活躍するサッカーナショナルチームと自分を同一化します。
また、地域の誰かが大きな活躍や業績を上げると「伊東市の誇り!」と言って「伊東」という括りの中で自分と同一化して喜びます。
ともすると、このように「私たち」という主語を利用することで自分の現実・問題から逃避してしまうことがあります。
一方、目を覆うような事件や不利益を被る出来事が生じた時、政治家や有名人が不祥事を起こした時などには、その人たちを「特殊な人」と区別して、「出ていけ」「一生牢屋に入れておけ」「死刑で良い」「伊東の恥」と非難します。
「あの人たち」「彼ら」と、「私」と区別した主語を使うことで不都合な現実から自分を切り離すのです。
「私」と「私たち」の正しい使い方
このような主語の使い分けによる誤魔化しのテクニックは現実逃避ですから、社会にも個々人にも悪影響を及ぼします。
「私」と「私たち」を問うシュチエーションを逆転させる必要があります。
日本代表チームが活躍しても、その功績は「私」にはありません。素晴らしい能力を持ち努力を積み重ね見事な結果を出したのは、代表チームのメンバー・関係者であって私ではありません。それなのに、「私たち」と喜びながら何もしていない自分を好い気にさせるのはどうでしょうか。
「彼ら」とは違う「私」の課題を直視して、「彼ら」の優れたところから学び取り「私」を成長させていくべきです。
悲惨な事件や不祥事が起こった時に、当事者を特殊な人・ダメな人と切り分けていてはいけません。そこで起こっている出来事は「私たち」の社会の現実、「私たち」のコミュニティの現実です。
不正や不誠実、安易な行動を内在しているのが私たちの社会であり、「私」もその社会の一員ですからその問題は「私たち」の課題です。「彼ら」を「私たち」と受け止めて、当事者としてその課題に向き合っていかなければ、問題を解決したり好転させていくことはできません。
まとめ
主語の選択を変えていく必要があります。
自分の問題から逃避するために時に「私たち」と言い、時に「彼ら」と言い換える誤魔化しが横行しています。それではどんどん社会は劣化し自分自身も劣化していきます。
自分の課題に向き合うために、誰かに依存する「私たち」を手放すこと。そして自分の課題に向き合うために、誰かを切り捨てる「彼ら」を手放すこと。
「私」が問われています。「私たち」が問われているのです。
あなたのたった一度の人生が素晴らしいものでありますように。